枕に顔をうずめたら

とりとめのないことをつらつらと書き綴るブログ。持て余した感情の最後の地。

片付けという行為が誘う、善と悪

単刀直入に言うと、私は片付けることが苦手だ。生まれてから今日に至るまで片付ける行為に苦痛を感じなかったことはなくて。大掃除を始めても、捨てる捨てないという時点の判断ですら自分の意志では決めることができなかった。身の回りの物を整えるという行為には違和感を感じなくとも、選択して破棄していくという行為に関しては取り掛かるたびに戸惑い動揺してしまった。

ただぼんやりと、捨てることに対して抵抗があったのだろうと思う。それは今でも続いていて、実際に現在の私の部屋はジャングルと化している。足の踏み場がほぼなく、物が溢れてどこから取り掛かったらよいのか当の本人でもわからない。できるだけ早いうちに自室の混沌を解消し、安心して寝起きできる空間に戻していかなければならないだろうなとは思う。しかし焦るばかりで手が付けられない。自室の惨状を目の前にすると足が竦む。やる気を削がれる。なんだこの汚部屋はとひとりごちて終わる。

自分はダメ人間だと落ち込んで目を背けてばかりで何もできなかったが、実はしっかりとした理由が存在したのだということを最近知ることとなった。

  • 私は自分のごちゃごちゃした部屋を片付けることで、必然的に過去の思い出と対峙するはめになる。一つ一つの物に対する思い出と向き合い取捨選択をする行為は、過去の優しい記憶と再会することができる反面忘れたいこともしくは忘れたのだと思っていた記憶に出会いさらには捨てる必要が生じてくる。このいちいち向き合い捨てていく作業は心身共に疲弊するものだ。私は日常生活および社会生活を送ることでいっぱいいっぱいだ。生きていくための行為が得意ではない。おそらく、私は生きていくために必要な処世術である「捨てる」ことが苦手であるため過去に向き合えない。向き合ったとして捨てる度胸もない。過去に縛られるタイプであるため、よい記憶も悪い記憶もすべて持っていこうとしてしまう。捨ててはいけないのではないかと、不安になってしまう。 

これらの悪循環が私と過去をいつまでも同じ場所にとどめているんではなかろうか。